皆さんは読書が好きですか?
私は嫌いです。
おっと、これでは話が進みませんね。
正確には、本を読むのは楽しいと思っています。読み始めると楽しいですね。でも、なかなか読み始めることができません。皆さんも身に覚えがあるのではないでしょうか。
私が10歳くらいの頃、母がクリスマスプレゼントに「大どろぼうホッツェンプロッツ」という本を買ってくれました。「面白い面白い」と、喜んで読みました。母が。私はまだ読んでいません。
母は、とても本が好きな人でした。私は、その母からいつも本を読め読めと言われていました。あんまりしつこいので、本嫌いの子供になってしまいました。もったいない話です。
二つ目の質問です。
皆さんは作文を書くのは好きですか?
私は嫌いです。
いやいや、これも補足がいりますね。
小学生、特に低学年の頃、私は作文が大の苦手でした。原稿用紙1枚を埋めるのに四苦八苦するほどでした。
<遠足の思い出> 楽しかった。おわり。
<読書感想文> 面白かった。おわり。
これでは先生は許してくれません。無理やり文を引き伸ばして、世にもつまらない作文をやっと書き上げて提出。その繰り返しでした。
今にして思えば、思ったことを言葉にできていなかったんですね。自分の考えを文にすることや、文で人を面白がらせることの楽しさに気付き始めてからは、文を書くのが嫌ではなくなりました。
さて、私自身の話はこれくらいにして、本題に入ります。
この夏、ニッケンアカデミーでは小中学生の全生徒に「全国読書作文コンクール」に応募してもらいます。つまり本を1冊読んで、作文を書くのです。
小学生・中学生の頃の私なら「ゲッ」と悲鳴を上げていることでしょう。読めと言われて読むのは実に嫌なものです。それを生徒達に強いるというのも気の引ける話ですが、そういうことになりました。
とはいえ「そう決まったから読みなさい書きなさい」ではあんまりですね。
大人達は、なぜ子供に本を読ませたがるのでしょう。なぜ作文を書かせたがるのでしょう。
ためになるから? でも「ためになる」って一体どういうことでしょう。「余計なお世話だ」と毒づきたくなるような、ちょっとうさんくさい言葉ですね。
さて、ここで私からのアドバイスです。
あなたはこの夏、1冊の本を“強制的に”読まされます。そこはこの塾に入った生徒の運命と思って諦めて下さい。
しかし本を読む時は、「自分のためになる」「勉強になる」といったことを意識するのはやめましょう。また、後で作文を書かねばならないということも、できるだけ考えずに読んで下さい。
なぜなら、本は「読みたいから読む」ものであってほしいからです。「面白いから読む」ものであってほしいからです。
読んでいる最中にあなたがすべきことはただひとつ、「物語を楽しむこと」です。読む前のことも、読んだ後のことも考えないで下さい。強制的に読まされているということを、できるだけ忘れて下さい。
きっと、あなたにとってはそれが最も楽で、最も楽しい読み方だと思います。そして実は、それが最も「ためになる」読み方でもあるのです。
作文の書き方については、またいずれ書くかも知れません。書かないかも知れません。まずは読書を楽しんで下さい。
2011年05月29日
2011年05月19日
なぜ勉強しなければならないの?[6]
<屁理屈をこねるな−3>
繰り返しになりますが、多くの子供は、善悪を区別する能力が未熟です。そんな子供に、大人が善悪を教え込むことを「しつけ」と言います。「しつけ」が不充分だと、子供は辛いことから逃げるばかりで、楽な方へ楽な方へと流れて行ってしまいます。そして将来は「人をだます大人」になったり「役に立たない大人」になったりするのです。
「うちの親はなぜいつも怒っているのか」と不思議に思っている人も少なくないと思いますが、親の心には、あなたにちゃんとした大人になってほしいという切実な願いがあるのです。あなたをしっかり育てるためなら、親は百回でも千回でも叱ります。それが親の背負った役目であり責任なのです。(時にはイライラして必要以上に怒鳴り散らしてしまうかも知れませんが、許してあげて下さい。)
叱られるのは辛いことにちがいありません。でもあなたにとって必要なことなのです。病気を治すために、苦くてまずい薬を飲んだり、痛い注射を打ったりすることがありますね。それと同じです。
大切なのは、あなたが叱られた時に、なぜ叱られたのか、本当に悪いことをしたのか、悪いことをしたならこれからどうすればよいか、それを自分の頭で考え、判断することです。
それができるようになれば、ただ辛いばかりと思っていた「叱られる」ということも、少しは落ち着いて受け止められるにちがいありません。また、相手の誤解で叱られたまま悔しい思いをするようなことも防ぐことができるでしょう。
相手の考えを理解する力、考える力、そして自分の考えを伝える力。どれも勉強によって鍛えることができるのです。そしてそうすることで、日頃の辛さや悔しさをやわらげることができます。時間はかかりますが、やってみる価値はあると思いませんか。
今回は内容が難しめでしたね。中学生ならまだしも、小学生にはちょっと理解しにくいかも知れません。もっと易しく書き直すべきかも知れませんが、続きを書くことを優先しますので、書き直しません。悔しかったらもっと勉強しましょう。
でも、次からはもっと易しい内容になるので安心して下さい。
繰り返しになりますが、多くの子供は、善悪を区別する能力が未熟です。そんな子供に、大人が善悪を教え込むことを「しつけ」と言います。「しつけ」が不充分だと、子供は辛いことから逃げるばかりで、楽な方へ楽な方へと流れて行ってしまいます。そして将来は「人をだます大人」になったり「役に立たない大人」になったりするのです。
「うちの親はなぜいつも怒っているのか」と不思議に思っている人も少なくないと思いますが、親の心には、あなたにちゃんとした大人になってほしいという切実な願いがあるのです。あなたをしっかり育てるためなら、親は百回でも千回でも叱ります。それが親の背負った役目であり責任なのです。(時にはイライラして必要以上に怒鳴り散らしてしまうかも知れませんが、許してあげて下さい。)
叱られるのは辛いことにちがいありません。でもあなたにとって必要なことなのです。病気を治すために、苦くてまずい薬を飲んだり、痛い注射を打ったりすることがありますね。それと同じです。
大切なのは、あなたが叱られた時に、なぜ叱られたのか、本当に悪いことをしたのか、悪いことをしたならこれからどうすればよいか、それを自分の頭で考え、判断することです。
それができるようになれば、ただ辛いばかりと思っていた「叱られる」ということも、少しは落ち着いて受け止められるにちがいありません。また、相手の誤解で叱られたまま悔しい思いをするようなことも防ぐことができるでしょう。
相手の考えを理解する力、考える力、そして自分の考えを伝える力。どれも勉強によって鍛えることができるのです。そしてそうすることで、日頃の辛さや悔しさをやわらげることができます。時間はかかりますが、やってみる価値はあると思いませんか。
今回は内容が難しめでしたね。中学生ならまだしも、小学生にはちょっと理解しにくいかも知れません。もっと易しく書き直すべきかも知れませんが、続きを書くことを優先しますので、書き直しません。悔しかったらもっと勉強しましょう。
でも、次からはもっと易しい内容になるので安心して下さい。
なぜ勉強しなければならないの?[5]
<屁理屈をこねるな−2>
さて、せっかくですから、今回の話題を「勉強」に結び付けて考えてみましょう。
親があなたを叱ったとします。
叱られるのは面白いことではないですね。しかし「面白くないから何か言い返す」というような幼稚な態度では、まったく話になりません。何も解決しません。
あなたがまずすべきことは、「親が言っていることを理解すること」です。
そんなの当然理解できている? 日本語で喋っているのだからわかる?
本当にそうでしょうか。
では、あなたは国語の文章問題に全問正解できていますか。あれは全て日本語で書かれているのですよ。しかも教科書や塾のテキストに載っているのは、優れた作家の書いた、わかりやすい文章ばかり。文章問題に正解できないのは、内容がきちんと理解できていないからです。あなたは日本語がわかっているつもりになっているかも知れませんが、実はまだまだ未熟なのです。
つまりあなたが親に叱られている時、あなたは「なぜ叱られているのか」が実はわかっていないのかも知れないのです。
悔しかったら、もっと勉強して国語の文章題に確実に正解できる実力をつけましょう。
あなたがすべきことの2つ目は、「あなたがしたことは本当に悪いことなのかを考えること」です。それを正しく判断した上で、次の行動に移りましょう。
「規則違反だから悪い」ではダメです。世の中にはおかしな規則だってあります。「叱られているのだから悪いのだろう」でもダメです。叱らなくていいのに叱ってしまうという失敗を、あなたの親がしないとも限りません。
「このような理由でこうである」と、考えの筋道がしっかりしていることを「論理的」と言います。あなた自身が善悪を正しく判断するためには、「ものごとを論理的に考える力」がとても役に立つのです。
さてこの「論理的に考える力(論理性)」を養うのにうってつけなのは、算数です。一見複雑な事柄から大事な情報を読み取り、式で表し、整理する。それが算数という教科です。もちろん国語の文章読解も論理性を養うのにおおいに役立ちますが、算数で頭を鍛えれば鬼に金棒です。算数の勉強で身に付くのは、なにも計算力だけではないのです。だから子供の頃に算数の勉強をしっかりやって来た大人達は、たとえ今は算数の問題が解けなくなっているとしても、勉強によって鍛えられた「論理的に考える力」はちゃんと持ち続けているのです。
あなた方は、ものごとを論理的に考える力がまだまだ未熟です。
悔しかったら、もっと勉強して算数の問題をスイスイ解けるようになりましょう。
あなたがすべきことの3つ目は……もし、叱られた理由に納得できたなら「はい」と返事をしましょう。謝る必要がある場合は謝りましょう。もしそこで何か言い返してしまったら、それは「屁理屈」にしかなりません。
しかしもし、叱られた理由に納得できないならば、なぜ自分が悪くないかを、きちんと説明しましょう。ただ「悪くない」と言い続けるだけでは、話し合いになりません。
相手にきちんと考えを伝えるには、そうです、作文です。あなたは作文が得意ですか。本を読んで感じたこと、学校行事で楽しかったことなどをわかりやすく書き表すことができますか。
ただ「楽しかった」「つまらなかった」では○×をつけるのと変わりません。何について、どんな理由で、どのように感じたかを、具体的にくわしく書けることが大切です。
それがきちんとできないようでは、たとえあなたが正しい意見を持っていても相手に伝えるのは難しいでしょう。誤解も解けません。
悔しかったら、もっと勉強して上手な作文が書けるようになりましょう。
(つづく)
さて、せっかくですから、今回の話題を「勉強」に結び付けて考えてみましょう。
親があなたを叱ったとします。
叱られるのは面白いことではないですね。しかし「面白くないから何か言い返す」というような幼稚な態度では、まったく話になりません。何も解決しません。
あなたがまずすべきことは、「親が言っていることを理解すること」です。
そんなの当然理解できている? 日本語で喋っているのだからわかる?
本当にそうでしょうか。
では、あなたは国語の文章問題に全問正解できていますか。あれは全て日本語で書かれているのですよ。しかも教科書や塾のテキストに載っているのは、優れた作家の書いた、わかりやすい文章ばかり。文章問題に正解できないのは、内容がきちんと理解できていないからです。あなたは日本語がわかっているつもりになっているかも知れませんが、実はまだまだ未熟なのです。
つまりあなたが親に叱られている時、あなたは「なぜ叱られているのか」が実はわかっていないのかも知れないのです。
悔しかったら、もっと勉強して国語の文章題に確実に正解できる実力をつけましょう。
あなたがすべきことの2つ目は、「あなたがしたことは本当に悪いことなのかを考えること」です。それを正しく判断した上で、次の行動に移りましょう。
「規則違反だから悪い」ではダメです。世の中にはおかしな規則だってあります。「叱られているのだから悪いのだろう」でもダメです。叱らなくていいのに叱ってしまうという失敗を、あなたの親がしないとも限りません。
「このような理由でこうである」と、考えの筋道がしっかりしていることを「論理的」と言います。あなた自身が善悪を正しく判断するためには、「ものごとを論理的に考える力」がとても役に立つのです。
さてこの「論理的に考える力(論理性)」を養うのにうってつけなのは、算数です。一見複雑な事柄から大事な情報を読み取り、式で表し、整理する。それが算数という教科です。もちろん国語の文章読解も論理性を養うのにおおいに役立ちますが、算数で頭を鍛えれば鬼に金棒です。算数の勉強で身に付くのは、なにも計算力だけではないのです。だから子供の頃に算数の勉強をしっかりやって来た大人達は、たとえ今は算数の問題が解けなくなっているとしても、勉強によって鍛えられた「論理的に考える力」はちゃんと持ち続けているのです。
あなた方は、ものごとを論理的に考える力がまだまだ未熟です。
悔しかったら、もっと勉強して算数の問題をスイスイ解けるようになりましょう。
あなたがすべきことの3つ目は……もし、叱られた理由に納得できたなら「はい」と返事をしましょう。謝る必要がある場合は謝りましょう。もしそこで何か言い返してしまったら、それは「屁理屈」にしかなりません。
しかしもし、叱られた理由に納得できないならば、なぜ自分が悪くないかを、きちんと説明しましょう。ただ「悪くない」と言い続けるだけでは、話し合いになりません。
相手にきちんと考えを伝えるには、そうです、作文です。あなたは作文が得意ですか。本を読んで感じたこと、学校行事で楽しかったことなどをわかりやすく書き表すことができますか。
ただ「楽しかった」「つまらなかった」では○×をつけるのと変わりません。何について、どんな理由で、どのように感じたかを、具体的にくわしく書けることが大切です。
それがきちんとできないようでは、たとえあなたが正しい意見を持っていても相手に伝えるのは難しいでしょう。誤解も解けません。
悔しかったら、もっと勉強して上手な作文が書けるようになりましょう。
(つづく)
なぜ勉強しなければならないの?[4]
<屁理屈をこねるな−1>
先日、小学生の生徒達との間で交わした会話に思うところがあり、今回はそのことについて書こうと思います。ちょっと内容が難しいので、覚悟して読んで下さい。
「こっちが何か言い返すと、親はすぐ『屁理屈を言うな』と怒る。」
そうこぼした生徒に、私はこんな風に言いました。
「どうしても納得できなかったら、その時の会話を書き出して、私に見せてみなさい。君が本当に正しいことを言ったのかどうか一緒に考えてあげるから。」
人は、自分の間違いを認めたくないという、弱さとずるさを持っています。親はそれを決して許しません。また、許してはなりません。
叱られて神妙に「はい、ごめんなさい」と言うのは苦しいことですね。その苦しみから逃げたいばかりに、人はしばしば「言い逃れ」をしようとします。「だって……。」
そんな時、多くの親はこう言うはずです。「言い訳をするな」「屁理屈をこねるな」と。
もっと見苦しい態度は「開き直り」です。「カンケーないじゃん」「聞こえませ〜ん」「だからなに?」。これをやったらゲンコツが飛んで来るかも知れません。「関係ないなら出て行け」と家から放り出されるかも知れません。
あなたの親は、自分の非を認めない、そんなあなたの「ずるさ」を叱っているのです。
さて、ここではっきりさせておかなければならないことがあります。
それは「言い逃れをする」ことと「言い分を伝える」ことの違いです。
何かの勘違いで、あなたが悪くないのに叱られてしまうことがあるかも知れません。親だって間違えることはあります。そんな時は「はい、ごめんなさい」と言う必要はないのです。自分が本当に悪くないのなら、それを説明するのは決して見苦しいことではありません。
一番いい方法は、誤解であることをしっかり説明して、わかってもらうことです。もしわかってもらえたなら、あなたの親はきちんと謝ってくれることでしょう。たぶん。
もしそれがうまく行かなかったら、家族の誰かに事情を話して相談してみるといいでしょう。
それでも解決できなかった時は、金属バットを振り回して暴れる……のはやめましょう。「ボク(ワタシ)は絶対に悪くない」と書き置きして家出……もダメです。どうしても気持ちが収まらない時は、私に相談して下さい。誤解を解くのを手伝ってあげます。
どうすべきか判断が難しいのは「自分も悪かったけれど、少しは言い分もある」という場合です。でも、親から叱られる時は、大抵このケースではないでしょうか。何か理由があって「つい」やってしまったことを叱られた場合、その「理由」を言いたくなる気持ちはわかります。
しかしこんな時は、やはり謝るべきです。言いたいことを言わずにおくのは辛いことですが、間違ったことをした罰と思ってあきらめる勇気も、時には必要です。
大事なのは、わずかな言い分を聞いてもらうことではなく、あなたが「つい」を繰り返さないことです。
(つづく)
先日、小学生の生徒達との間で交わした会話に思うところがあり、今回はそのことについて書こうと思います。ちょっと内容が難しいので、覚悟して読んで下さい。
「こっちが何か言い返すと、親はすぐ『屁理屈を言うな』と怒る。」
そうこぼした生徒に、私はこんな風に言いました。
「どうしても納得できなかったら、その時の会話を書き出して、私に見せてみなさい。君が本当に正しいことを言ったのかどうか一緒に考えてあげるから。」
人は、自分の間違いを認めたくないという、弱さとずるさを持っています。親はそれを決して許しません。また、許してはなりません。
叱られて神妙に「はい、ごめんなさい」と言うのは苦しいことですね。その苦しみから逃げたいばかりに、人はしばしば「言い逃れ」をしようとします。「だって……。」
そんな時、多くの親はこう言うはずです。「言い訳をするな」「屁理屈をこねるな」と。
もっと見苦しい態度は「開き直り」です。「カンケーないじゃん」「聞こえませ〜ん」「だからなに?」。これをやったらゲンコツが飛んで来るかも知れません。「関係ないなら出て行け」と家から放り出されるかも知れません。
あなたの親は、自分の非を認めない、そんなあなたの「ずるさ」を叱っているのです。
さて、ここではっきりさせておかなければならないことがあります。
それは「言い逃れをする」ことと「言い分を伝える」ことの違いです。
何かの勘違いで、あなたが悪くないのに叱られてしまうことがあるかも知れません。親だって間違えることはあります。そんな時は「はい、ごめんなさい」と言う必要はないのです。自分が本当に悪くないのなら、それを説明するのは決して見苦しいことではありません。
一番いい方法は、誤解であることをしっかり説明して、わかってもらうことです。もしわかってもらえたなら、あなたの親はきちんと謝ってくれることでしょう。たぶん。
もしそれがうまく行かなかったら、家族の誰かに事情を話して相談してみるといいでしょう。
それでも解決できなかった時は、金属バットを振り回して暴れる……のはやめましょう。「ボク(ワタシ)は絶対に悪くない」と書き置きして家出……もダメです。どうしても気持ちが収まらない時は、私に相談して下さい。誤解を解くのを手伝ってあげます。
どうすべきか判断が難しいのは「自分も悪かったけれど、少しは言い分もある」という場合です。でも、親から叱られる時は、大抵このケースではないでしょうか。何か理由があって「つい」やってしまったことを叱られた場合、その「理由」を言いたくなる気持ちはわかります。
しかしこんな時は、やはり謝るべきです。言いたいことを言わずにおくのは辛いことですが、間違ったことをした罰と思ってあきらめる勇気も、時には必要です。
大事なのは、わずかな言い分を聞いてもらうことではなく、あなたが「つい」を繰り返さないことです。
(つづく)
2011年05月16日
なぜ勉強しなければならないの?[3]
<信ずるものは救われる かも>
私のこの連載を読んだ後、あなたは今よりも勉強熱心になれるでしょうか。なれるかも知れません。しかし、なれないかも知れません。
なぜなら、私の答えを読んで仮に「納得」できたとしても、「勉強はしんどい」ということに変わりはないからです。勉強することで自分自身が得をするのだと頭ではわかっていても、「しんどさ」に負けてついつい怠けてしまう弱さを、人は誰でも持っています。そして、勉強のしんどさを完全に取り除いてあげることは、誰にもできないのです。
そこで、勉強に対して前向きになる方法としてひとつ考えられるのは「親を信じてみる」ということです。あなたの親が「勉強しなさい」と繰り返し言うのは、たぶんあなたのためです。他の理由も混じっているかも知れませんが、勉強することがあなたにとって得になる可能性が高いのも確かです。
ならば、こう考えてみてはどうでしょう。
「勉強して何の得になるのかはよくわからないし、わかるように説明もしてもらえないけれど、でも親がそう言うのだから、言われる通りにがんばってみようじゃないか。」
そんな風に割り切ってしまうのです。親を信じられる人は、信じてしまって下さい。それでがんばれる人は、この連載の続きを読む必要はありません。
「いんや、うちの親は信用でけん。きっとワタシを(オレを)罠にはめようと何かたくらんでいる」と思う人は……連載の続きを待っていて下さい。何かの足しにはなるかも知れません。
「信じてみましょう」なんて調子のいいことを言いましたが、もちろん大人の言うことがいつも正しいとは限りません。特に私の言うことは全部疑ってかかるべきです。
以前、「どうして子供が生まれるのか」と生徒に聞かれた時、私は「マルエツで198円で売っている」と答えてしまいました。この際だから白状しますが、あれはウソです。
私のこの連載を読んだ後、あなたは今よりも勉強熱心になれるでしょうか。なれるかも知れません。しかし、なれないかも知れません。
なぜなら、私の答えを読んで仮に「納得」できたとしても、「勉強はしんどい」ということに変わりはないからです。勉強することで自分自身が得をするのだと頭ではわかっていても、「しんどさ」に負けてついつい怠けてしまう弱さを、人は誰でも持っています。そして、勉強のしんどさを完全に取り除いてあげることは、誰にもできないのです。
そこで、勉強に対して前向きになる方法としてひとつ考えられるのは「親を信じてみる」ということです。あなたの親が「勉強しなさい」と繰り返し言うのは、たぶんあなたのためです。他の理由も混じっているかも知れませんが、勉強することがあなたにとって得になる可能性が高いのも確かです。
ならば、こう考えてみてはどうでしょう。
「勉強して何の得になるのかはよくわからないし、わかるように説明もしてもらえないけれど、でも親がそう言うのだから、言われる通りにがんばってみようじゃないか。」
そんな風に割り切ってしまうのです。親を信じられる人は、信じてしまって下さい。それでがんばれる人は、この連載の続きを読む必要はありません。
「いんや、うちの親は信用でけん。きっとワタシを(オレを)罠にはめようと何かたくらんでいる」と思う人は……連載の続きを待っていて下さい。何かの足しにはなるかも知れません。
「信じてみましょう」なんて調子のいいことを言いましたが、もちろん大人の言うことがいつも正しいとは限りません。特に私の言うことは全部疑ってかかるべきです。
以前、「どうして子供が生まれるのか」と生徒に聞かれた時、私は「マルエツで198円で売っている」と答えてしまいました。この際だから白状しますが、あれはウソです。
なぜ勉強しなければならないの?[2]
<大人はこう思っている>
勉強を怠けたことのない人というのは、ほんの一握りです。ほとんどの大人達は、がんばったり怠けたりを繰り返しながら、どうにか学業を終えたというのが本当のところです。もしあなたの親がそんな風に怠けたことがまったくなかったり、たまにしかなかったりしたならば、とても心の強い人だと言えるでしょう。ちょっと古臭い言葉を使うなら「根性がある」というやつです。
大人達の多くは、今ではこう思っています。
「勉強しておいてよかった。」
「でも、もっと勉強すればよかった。」
「機会があれば、また勉強したい。」
疑うなら、周りの大人達に聞いてみて下さい。「そう思ってるの?」と。
「その通りだ」という答えが返って来たとしたら、その方は勉強することの意味を知っている人です。たぶん。
だからこそ、大人はこうも思うのです。
「わが子にはしっかり勉強してほしい」と。
さてここまで読んで、「よし、がんばって勉強しよう」と思いましたか。
思わないでしょうね。なにしろ私はまだ質問に答えていないのですから。
「なぜ勉強しなければならないの?」
答えは簡単ではありません。そして答えはひとつではありません。
大人達は、答えがわからないのではないのです。わかりやすく説明できなくて困っているだけなのです。
あなたの周りの大人が「わかりやすく説明」できないのは、もしかしたら勉強が足りないからかも知れませんね。そんな大人達に対しては、こう言ってみましょう。「もっと勉強したまえ」と。
言った後どうなるかは責任持ちませんが。
勉強を怠けたことのない人というのは、ほんの一握りです。ほとんどの大人達は、がんばったり怠けたりを繰り返しながら、どうにか学業を終えたというのが本当のところです。もしあなたの親がそんな風に怠けたことがまったくなかったり、たまにしかなかったりしたならば、とても心の強い人だと言えるでしょう。ちょっと古臭い言葉を使うなら「根性がある」というやつです。
大人達の多くは、今ではこう思っています。
「勉強しておいてよかった。」
「でも、もっと勉強すればよかった。」
「機会があれば、また勉強したい。」
疑うなら、周りの大人達に聞いてみて下さい。「そう思ってるの?」と。
「その通りだ」という答えが返って来たとしたら、その方は勉強することの意味を知っている人です。たぶん。
だからこそ、大人はこうも思うのです。
「わが子にはしっかり勉強してほしい」と。
さてここまで読んで、「よし、がんばって勉強しよう」と思いましたか。
思わないでしょうね。なにしろ私はまだ質問に答えていないのですから。
「なぜ勉強しなければならないの?」
答えは簡単ではありません。そして答えはひとつではありません。
大人達は、答えがわからないのではないのです。わかりやすく説明できなくて困っているだけなのです。
あなたの周りの大人が「わかりやすく説明」できないのは、もしかしたら勉強が足りないからかも知れませんね。そんな大人達に対しては、こう言ってみましょう。「もっと勉強したまえ」と。
言った後どうなるかは責任持ちませんが。
なぜ勉強しなければならないの?[1]
<答えてくれない大人達>
あなたは、周りの大人達(親、教師など)から、ルール、マナー、健康管理など、さまざまなことを教えられて来たと思います。
「危ないから赤信号で渡ってはいけません。」
「迷惑だから静かにしなさい。」
「風邪をひくから暖かくして寝なさい。」
大抵のことについては「〜だから」「〜のために」と理由を言ってくれていますね。そしてあなたは、その理由に納得もしていると思います。
それなのに勉強に限っては、なかなか納得できる理由を言ってもらえないのはなぜなのでしょう。
しかも、しかもです。「勉強しなさい」と言っている当の大人でも、小学6年生の算数や国語の問題を全部解けるという人は、実はあまりいません。理科や社会となれば、半分も正解できないかも知れません。そしてそれでも大人達は、大きな不自由もなく毎日を過ごしているのです。
それなのに、みな口をそろえて「勉強しなさい」と言う。実に奇妙なことです。
あなたの親も、かつては小学生であり中学生でした。
もしかしたら勉強嫌いな子供だったかも知れません。怠け者だったかも知れません。「なぜ勉強しなければならないのか」という疑問が消えず、不満を抱えていたかも知れません。
それが大人になればアラ不思議、わが子に「勉強しなさい」とは言うけれども、自分自分もかつて抱いていた疑問には充分に答えてくれない。いえ、そう決め付けるつもりはありませんが、もしそうだとしたら、不思議です。実に不思議です。
あなたは、周りの大人達(親、教師など)から、ルール、マナー、健康管理など、さまざまなことを教えられて来たと思います。
「危ないから赤信号で渡ってはいけません。」
「迷惑だから静かにしなさい。」
「風邪をひくから暖かくして寝なさい。」
大抵のことについては「〜だから」「〜のために」と理由を言ってくれていますね。そしてあなたは、その理由に納得もしていると思います。
それなのに勉強に限っては、なかなか納得できる理由を言ってもらえないのはなぜなのでしょう。
しかも、しかもです。「勉強しなさい」と言っている当の大人でも、小学6年生の算数や国語の問題を全部解けるという人は、実はあまりいません。理科や社会となれば、半分も正解できないかも知れません。そしてそれでも大人達は、大きな不自由もなく毎日を過ごしているのです。
それなのに、みな口をそろえて「勉強しなさい」と言う。実に奇妙なことです。
あなたの親も、かつては小学生であり中学生でした。
もしかしたら勉強嫌いな子供だったかも知れません。怠け者だったかも知れません。「なぜ勉強しなければならないのか」という疑問が消えず、不満を抱えていたかも知れません。
それが大人になればアラ不思議、わが子に「勉強しなさい」とは言うけれども、自分自分もかつて抱いていた疑問には充分に答えてくれない。いえ、そう決め付けるつもりはありませんが、もしそうだとしたら、不思議です。実に不思議です。
なぜ勉強しなければならないの?[序]
「なぜ勉強しなければならないの?」
あなたは周りの大人達に、この質問をしたことがありますか。
質問をした時、その人は答えてくれましたか。また、どんな答えが返って来ましたか。そしてその答えに、あなたは納得しましたか。納得して「よし、がんばって勉強しよう」と思いましたか。
多くの子供達は、勉強が好きではなく、でも「しなければならないのだろうな」となんとなく思い、時々がんばり、時々怠け、時々ほめられ、時々(毎日?)しかられ――といった具合に過ごしているのではないでしょうか。「なぜ勉強しなければならないのか」という大きな疑問は消えないままに。
時々私も、生徒からこの質問を投げかけられます。
私も子供の頃には、周りの大人に同じことを尋ねたことがあると思います。勉強は決して好きではありませんでしたから。どんな返事が返って来たかは憶えていません。恐らく、聞かされた答えが納得できるものでなかったか、よく理解できなかったかのどちらかだったのでしょう。
そして結局は、この疑問への答えは自分で見付けていたように思います。しかも、高校生の頃にこうだと思った答え、大学時代に見付けた答え、そして今私の頭の中にある答え、どれも違います。いや、「違う」という言い方は正確ではありません。勉強というものの本質はあまりに奥深く、考えれば考えるほどたくさんのことが見えて来るのです。だから一度「こうだ」と答えらしきものを見付けても、そこに安住することができないのです。1+1の答えは今も昔も2ですが、この質問への答えはそう単純ではありません。とても5分や10分で語り尽くせるものではないのです。
答えるのに何日かかるかわからないこの壮大なるテーマに、しばらく取り組んでみようと思います。
難しい漢字、難しい言葉も出て来ると思いますが、無闇に手加減はしません。読めない漢字、知らない言葉があったら辞書で調べましょう。
あなたは周りの大人達に、この質問をしたことがありますか。
質問をした時、その人は答えてくれましたか。また、どんな答えが返って来ましたか。そしてその答えに、あなたは納得しましたか。納得して「よし、がんばって勉強しよう」と思いましたか。
多くの子供達は、勉強が好きではなく、でも「しなければならないのだろうな」となんとなく思い、時々がんばり、時々怠け、時々ほめられ、時々(毎日?)しかられ――といった具合に過ごしているのではないでしょうか。「なぜ勉強しなければならないのか」という大きな疑問は消えないままに。
時々私も、生徒からこの質問を投げかけられます。
私も子供の頃には、周りの大人に同じことを尋ねたことがあると思います。勉強は決して好きではありませんでしたから。どんな返事が返って来たかは憶えていません。恐らく、聞かされた答えが納得できるものでなかったか、よく理解できなかったかのどちらかだったのでしょう。
そして結局は、この疑問への答えは自分で見付けていたように思います。しかも、高校生の頃にこうだと思った答え、大学時代に見付けた答え、そして今私の頭の中にある答え、どれも違います。いや、「違う」という言い方は正確ではありません。勉強というものの本質はあまりに奥深く、考えれば考えるほどたくさんのことが見えて来るのです。だから一度「こうだ」と答えらしきものを見付けても、そこに安住することができないのです。1+1の答えは今も昔も2ですが、この質問への答えはそう単純ではありません。とても5分や10分で語り尽くせるものではないのです。
答えるのに何日かかるかわからないこの壮大なるテーマに、しばらく取り組んでみようと思います。
難しい漢字、難しい言葉も出て来ると思いますが、無闇に手加減はしません。読めない漢字、知らない言葉があったら辞書で調べましょう。
2011年05月05日
高校講座開始
横浜西谷教室としては今年度新設することになった高校講座。3月の高校準備講座、4月の無料体験授業を経て、5月より本格開講となりました。
1年生とはいえ歯応えのある問題が並び、中学3年生の学習内容がしっかり身に付いていなければ、ついて行くなどとてもおぼつかない水準です。たとえ身に付いていても、授業用テキストの問題を一通りこなしただけでは不充分でしょう。となれば、はい宿題。
1年生とはいえ歯応えのある問題が並び、中学3年生の学習内容がしっかり身に付いていなければ、ついて行くなどとてもおぼつかない水準です。たとえ身に付いていても、授業用テキストの問題を一通りこなしただけでは不充分でしょう。となれば、はい宿題。